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カテゴリー「ゲシュタルト療法」の記事

「夢」のワーク

皆さん、こんにちは笠井です。

一か月ぶりでしょうか…

後期はゲシュタルト療法をメインに勉強しておりますと、以前書きましたが

ゲシュタルト療法のワークの特徴に「夢」を扱うワークがあります。

ここでいう夢とは寝ている間にみる夢のことです。

ゲシュタルトの夢のワークの前提は

「夢の中にでて来るものはすべて自分自身の一部であり、それぞれが自分に向けたメッセージを持っている」

というものです。

そして昨日はその「夢」を扱うワークを体験してきました。

実はワークの予約を入れたのですがこの一か月何をやろうか悩んでいたのです。

そうしたら昨日の朝、面白い夢を見たので起きてすぐ紙に書きとめました!

実際に起こったことや架空の町、ありえないことなどバラエティーに富んだ夢でした。

自分なりに考え、どんなワークになるか想像していました…

しかし、いざワークをしてみると自分自身で思っていたことと違う言葉が口をついて出てきました。

そしてその夢は、私に大切なことを気づかせてくれました。

ゲシュタルト療法の創始者パールズは「夢は少なくとも一年分のワークの意味ある題材であり続ける」

といっています。

機会があれば皆さんも是非ゲシュタルト療法の「夢」のワークを体験してみてください。

4つの心理的過程

自己と他者との混乱が神経症なのである。
この混乱がみられたときには、基本的には、イントロジェクションやプロジェクション、リトロフレクション、コンフルーエンスのメカニズムが働いているのである。
その最たるものはパーソナリティの崩壊であり、思いと行為との混同である。

心理療法においては、神経症の人の弁別の能力を再構成しなければならない。
自分と自分でないものとを再発見することができるように援助しなければならない。




4つの心理的過程の整理②

イントロジェクションの場合は、実質上は「彼ら」であるにもかかわらず「私」という代名詞が使われるところに特徴がある。
プロジエクションの場合は、実質上は「私」であるにもかかわらず「それ(it)とか「彼ら」という代名詞が使われる。
コンフルーエンスの場合は、実質上はどちらか分からないにもかかわらず「我々」という代名詞が使われるところ特徴がある。
リトロフレクションの場合は、「私自身(myself)という再帰代名詞が使われるのが特徴である。



4つの心理的過程の整理①

イントロジェクション(取り込み)の傾向のある人は、他者が自分に望むようにする。
プロジエクション(投射)の傾向にある人は、本当は、自分の方が他者を責めたいのであるが、他者から自分は責められているととる。
病的なコンフルーエンス(融合)の傾向にある人は、誰が誰に対して何をしているかを知らない。
リトロフレクション(反転)の傾向にある人は、他者に対してしてあげたいことを自分自身にする。
人が行動を反転するときは、その人が本来、他者または対象物に対してしてあげたいと欲したものを自分自身にする。
このような人は自分の欲求を満たすために外界に働きかけたりしない。
エネルギーを外に向けて外界を操作したり変えることに使わないで、むしろ内に向けている。
したがって、本来、日標となるものが外界にあったとしても、そこには目を向けないで、自己に絶えず向けている。
このようなパーソナリティの持ち主は「する」立場と「される」立場の両方に二分割されている。
その意味では自分が、文字通り、自分の最悪の敵となるのである。



リトロフレクション(反転)

リトロフレクション(反転) とは、「鋭く元へ跳ね返ってくる」ことを意味している。
リトロフレクションの傾向を持つ人は、自分と外界との境界を的確に知っていて、ちょうどそこへ明確で、鮮やかな線を引く。
しかし、この線は、自分のなかの境界だと思われるところに引かれるのである。

リトロフレクションの状態にある人は、「私は自分自身が恥しい」とか、「この仕事をするためには私自身をムチ打たねばならない」などと言う。
この種の表現が際限なくみられる場合、それは間違いなくリトロフレクションの状態にあるといえるが、それは「私」と「私自身」とは別々の人物であるかのような考え方に根ざしているからである。
例の合唱団のメンバーが「私は私自身をコントロールしなければならない」と言っているのは、まさにこの範疇に入る典型である。



コンフルーエンス(融合)④

例に挙げた合唱団のメンバーの言った「我々は歌い続けたい」というせりふは、彼以外の団員たちには当てはまることであって彼には当てはまらない。
彼自身について言えば、一時その場を離れ、トイレに行くととができればよかったのである。
それゆえコンフルーエンスを示す以外の何ものでもない。
彼自身の欲求と他者の欲求とを弁別できない状態にあることを物語っている。
病的なコンフルーエンスの状態にある人が「我々」というとき、その人自身なのか、他者のことなのか、どちらのことを言っているのか分からない。
なぜなら、その人は完全に境界を失っているからである。


コンフルーエンス(融合)③

病的なコンフルーエンスは社会的にも非常に問題のある結果をきたすことがある。
コンフルーエンスの状態では何でも同一でないと気がすまなく、少しの相違にも耐えられなくなる。
このことは自分の子どもを単に自分たちの延長物としか思わない両親にもみられる。
多くの両親が、自分の子どもは少なくとも何かの点で自分たち両親とは違っていて欲しいと思うのに対して、このような両親は、そうは願わない。
そして、両親と融合せず、また期待に応えられないとき、子どもは拒絶され、疎んじられることになる。
「お前は私の息子ではない」とか、「親のいうことをきかない子どもは面倒みませんよ」と。


コンフルーエンス(融合)②

病理的なコンフルーエンス状態にある人は、自分が何者であるかを言うことはできないし、また他者が何者であるかを告げることもできない。
そのような人はどこまでが自分で、どこからが他者なのかが分からない。
そして自己と他者の間の境界が分からないので、他者とよいコンタクトを持つことが不可能である。


コンフルーエンス(融合)①

人が、自分自身と外界との境界を感じられないとき、あるいは自分と外界とが一つであると感じるとき、コンフルーエンス(融合) の状態にある。
そのとき部分と全体とを、互いに区別することができない。
新生児はコンフルーエンスの状態にある。
すなわち、身体内部と外部の区別ができないし、自己と他者との区別もついていない。


プロジェクション(投射)⑤

イントロジェクションの傾向の強い人は、その人自身の内側が未吸収の考えが争い合う戦場となるが、一方、プロジェクションの傾向の強い人は、世界が個人的な葛藤を戦わす戦場となる。
必要以上に用心深い、あるいは心配性の人は、友人が欲しい、また、誰かから愛されたいと言うが、同時に「誰も信じられない。他人は鵜の目鷹の日。みなたかろうとしている」とも言う。
これはまさに最高のプロジェクションの例である。