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2014年11月の5件の記事

大阪城

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心がけたいこと…

「人の評価は、何を成したかではなく、何を成そうとしたかで決まる」(山本周五郎)

舞妓さん見ながら、ご飯食べちゃダメでしょ

つい先日、授業参観がありまして、行ってきたのですが、これが面白くて……。

「道徳」の授業参観だったのですが、道徳の授業参観って……? と思うでしょう。

いったい何をしたのかといえば、先生がお題を提示して、みんなで話し合い解決策を考えてみよう、という授業でした。

課題は京都・奈良に修学旅行に行くことになり、ある班の班長さんは「放課後みんなで集まって、自由行動の行き先を決めよう」といいました。ところが、「みんなで放課後に集まるのなんて、メンドクサイ。部活もあるし」とか。「塾があるんだけど」……などといって、話し合いに参加しない人たちがいます。そこで、班長さんは、「じゃぁ、出られる人だけ出て、決めておくよ」といって、文句をいった人たちは帰ってしまいました。後日、決めた内容をみんなに伝えると、「ええ、こんなところに行きたくない」「ご飯もここぉ? いくら京都でも和食はイヤだ」などと、不満が噴出して、せっかく決めた内容がひっくり返ってしまいました。

この班の班長さんは、どこがいけなかったのでしょう?

ありがちな内容ですよね。来年、京都・奈良に行くので、その意味でもあらかじめ揉めそうな内容をシュミレーションしているわけです。

そこで出た意見は「やっぱりみんなで決めなきゃいけない」「出られないのなら、その時に決定した内容に文句を言わない、などの約束を取り決めておくべきだった」など。常識のある意見が多く、子どもでも大人でも当たり前のことはきちんと分かっているんだな、と思いました。分かっていながらも、言ってしまう人というのは、その時の立場や都合で我儘をいわずにはいられない人なのかもね。

そのシュミレーションでは、他にも「じゃぁ、今度はみんなでどこにご飯を食べに行くかを決めます。これは班の人と話し合って決めてください。そのお店に決めた理由と決め方も後で発表してもらいます」と先生が言って、十分ほど、話し合いの時間がもたれ、発表したのですが、その発表の中で飛び出した発言がタイトルのセリフだったわけです。

京都の豆腐料理を中心とした和定食を舞妓さんの芸を見ながら食べるという人気店があるそうですが、「そんなの! テレビを見ながらご飯を食べるのがダメなんだから、舞妓さんを見ながらご飯を食べるのもダメでしょ! だから却下しました」といって、教室を沸かせてくれたわけです。

確かにね。くくく……と保護者たちも忍び笑いをしていました。

ちなみに、他の候補は、和洋中のバイキング、ステーキ屋さん、マクドナルド、この中から選ぶとしたら? という限定的な選択肢の中から決めるということだったので、話し合いの時間が十分でも足りたんですね。

ありがちな揉め事もこうしてシュミレーションをしておくことで、相手の立場がわかり、トラブルが少なくなる。――ちょっと、交流分析を思い出しました。トラブルが起こる時って、たぶん自分の考え方や行動の癖が出ているんでしょうね。そこで、あらかじめ悪いところを点検して気をつけておくと人との衝突が減る。

日常ではなかなかできませんが、こういうことを授業で行うのはとてもいいことだな、と思いました。道徳の授業が必修化になる、なんて話もありますが、こういう内容なら、必修化もありだと思います。

ただし。

必修化になると、成績がつくわけで、それはどう評価するのか? という疑問符が尽きませんが……。

(はろ)

どうでもいい日常の一コマ「衣替えの話」

朝晩だけでなく、日中も急に冷え込むようになりましたね。

そろそろ、タンスを整理しなくてはと、しまいこんでいた洋服を引っ張り出してみる。と、子どもたちの着られなくなった洋服やコートなんかがワサワサと出てきて、ため息が出た。子どもの成長は早いもので、一年経つともうサイズダウンだ。たったのワンシーズンで着られなくなってしまう。

こういう場合、リサイクルショップに売るか、ネットで売るという方法が賢いやり方なんだろうけれど、毎年毎年サイズが変わって、そのたびに始末していたら、「売る」という作業の手間にいい加減、疲れてしまった。

結構、「売る」って、大変。その労力と手間を考えると、捨てる方が楽。

だけど、そうはいっても、捨てるには一年のうちの数ヶ月しか着ていないから、きれいだし、もったいない。そう考えると、やっぱり捨てられなくて悩んでしまう。

リサイクルショップだと、ほとんどの中古品はお金をくれない(-_-;)

「うちで扱っているのは、新古品のみなんですよ。置いて帰るのは構いませんけど」などといって、追い払うように品物だけ寄こせという感じで返されてしまう。

はっきりいって、そこに行くまでの交通費がかかっているから、せめてガソリン代くらい出してくれない? って、叫びたくなっちゃう。

だったら、呼べばいいじゃん、って?

もちろん、呼んだこともありますよ。だけど、来てもらった人に「これは、どれもお値段がつきませんねぇ」といわれてしまったら、来てもらった手前、「じゃぁ、これらは只でいいので持っていってください」とかいって、その見ず知らずの人にあげてしまうことになる。

その時、思ったんだよね。これなら、知り合いにあげた方がマシじゃないか……?

てなわけで、今では、

「よかったら、もう着られなくなったコートがあるんだけど」「冬物いる?」などと。

ご近所に声をかけて全部あげてしまうことにしている。

こうして冬物をどんどん処分していかないと、しまっておく場所もないもので、せっせと片付けて(という名の始末をして)いる。

子どもがいる家庭のみならず、老夫婦だけで住んでいるご家庭でも、こうした不用品の片付けには苦労されているのではないだろうか。年を取ると、物を捨てるにも売るにも体力が必要だし、かといって、最近のリサイクルショップではそう簡単には買ってくれないし。もっとひどい話だと、ゴミ出しにお金がかかる自治体区域のお店なんかでは、「これはゴミですね」なんて衝撃の一言をきっぱりと言い放って、お持ち帰りを言い渡される場合もある。ここまでくると、もう売るどころの話じゃない。処分の難しさを感じてしまう。

そんなこんなで、売るのを諦め、捨てるに走るのだけれども、捨てる準備をするにも、やはりこれまたそれなりの手間と根気がいる。

いらない物といる物とを分別し、捨てる物をゴミ袋に詰めて期日までに出したり、あるいは電話をかけ、お金まで払わなければいけない物もある。やっぱり、と思うものに関しては、きれいに洗濯して、これまた紙袋などに詰め、あげる人に渡すところまでやらなければ終わりにはならない。

なのに。

こんなにも面倒な作業をせっせとやっている母を捕まえて、捨ててもらうだけの人間は、感謝するどころか、捨てさせてやっている、といった態度で実に偉そうだ。挙句の果てには、「何でもすぐに捨てるんだから!」とか。「もったいない。あれば使うのにさぁ」などと、頑張って代わりに捨ててあげたにも関わらず、文句を言い、捨てる行為を責めることすらある。

アホか! 物を『片付けられない=捨てられない』あんたたちに代わって、「捨ててあげている」んだぞ!  と捨てる側からすれば、怒り心頭だ。

――とまぁ。毎年、無益な怒りと労力を結集させねばならない、とても疲れる衣替えのシーズン=ゴミ捨てシーズンですが。この記事で、少しでも「捨てる」という作業の大変さをご理解していただければ、ひたすら捨てる作業を繰り返している立場の人間としてはうれしい限りです。

「捨て魔」でもね、時折、捨てる作業に疲れを感じて、もうこのまま仕分けなんかせずに、全部まとめて捨ててやりたいな……そんな衝動にかられたりするわけですよ。だけど、それはいけないことなわけで。

そんな時、ふと思うんです。今ごろ、同じ立場にいるであろう女性たちは全国にたくさんいるのだろうなぁ、と。彼女たちも、こんな風に嫌な思いを抱えながら作業しているのかなぁ、と。そんな風に仲間がいる、と思うと少しは慰められる気がするのですが、それは都合のいいわたしの勝手な憶測だろうか。

                                           はろ

恋は心のなかにさく花

タイトルは、徒然草二十六段を拝借したものです。

ドキッとする見出しですよね。そして、心を引き立てるものがある。

現代語訳では、

『恋の花片が風の吹き去る前に、ひらひらと散っていく。懐かしい初恋の一ページをめくれば、ドキドキして聞いた言葉の一つ一つが、今になっても忘れられない。サヨナラだけが人生だけど、人の心移りは、死に別れより淋しいものだ。

だから、白い糸を見ると「黄ばんでしまう」と悲しんで、一本道を見れば、別れ道を連想して絶望する人もいたのだろう。昔、歌人が百首づつ、堀川天皇に進呈した和歌に、

 恋人の垣根はいつか荒れ果てて野草の中ですみれ咲くだけ

という歌があった。

好きだった人を思い出し、荒廃した景色を見ながら放心する姿が目に浮かぶ。』

とあったけれども、わたしはこのタイトルから少し違うことを連想してしまった。

タイトルから勝手に解釈した訳を述べさせていただくと、こうなる。

恋愛に夢中になっている時って、幸せだけれど、いつまでもそのドキドキやピークの好き! っていう気持ちは長くは続かない。やがて、相手に慣れてくると、ドキドキはしなくなるし、態度もある程度落ち着いてゆく。付き合えた瞬間はすごく幸せだけれど、やがてその幸せっていう気持ちはどこへいったのかと思うほど、薄れてしまうこともあり、ふと思い返すと、あの頃の気持ちはいったいどこからきていたのだろうかと不思議に思うことすらある。

ふと、うらぶれたかつての恋人の家の前を通り、思い出す。荒れ果てた彼女の家を見て、彼女と過ごした蜜月を想い、切なくなる。ドキドキして聞いた言葉の一つ一つが今なお思い起こされると胸の中で躍りだす。心移りによって、別れてしまい、このように思いだされることは、死に別れるよりも淋しい。

それはまるで、短い間に咲き、短い間に散っていくさくらの花のようじゃないか。

心の中にさくらが咲かねば、待ち焦がれ、あるいは花がいつまでも咲かないと、不機嫌になったり諦観して心が冷えていくが、やがて咲いたら咲いたで喜ぶのは一瞬だけ。次第に花は盛りを過ぎて色あせ、そして散ってゆく。

恋とは心の中にぱっと咲いてぱっと散る花だ。

なのに、待ち焦がれるや、心の花。かつての散った花の花片でさえ、今なお切なく、花の匂いぞ香る

とか何とか。こういう内容かなぁ、などと想像してしまった。

なんだかこちらの方がしっくりくる気がするんだけど。自画自賛^_^;?

勝手解釈はともかくとして、古典は現代語訳だと読みやすく、内容もいいと思います。

子どもの勉強用にと借りてきたのだけれど、読み返すと穏やかな気持ちになれるし、かつての人の自然観というものについても考えさせられます。百人一首などの和歌もいいですけど。『ちはやぶる』という人気漫画がありまして、その漫画から火がついたのか、静かにではあるけれども、百人一首が注目されているようで、その現代語訳とかるたの歌を比べて読むのも楽しいです。

今の時季なら、奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき  猿丸大夫

とか。

月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど

などがピタリときますかねえ。どちらも淋しい歌ですけれども。

やはり秋は物悲しいのかもしれません。

大江千里

秋の夜長によろしければ、読んでみてください。

子どもが古典を勉強していたので、参考までにと徒然草の現代語訳を借りてきたんです。

かつて読んだのですが、ほとんど忘れていて、このようなものもあったかと思いまして。

子どもが本を学校に持って行ってしまったのですが、記憶違いがありましたら、ごめんなさい。

(はろ)

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