交流分析ルポ(二回目) 後編
交流分析の講座についてのお話はこれで最後です。
間を空けてしまってすみませんm(__)m
交流分析の「ディスカウント」についてです。
わたしたちが日ごろ使うディスカウントという言葉はスーパーやデパートの特売のことですが、交流分析で使用するディスカウントはもっと深刻な内容です。人間の存在を低くみたり、無視したりするあらゆる言動を含みます。従って、値引きは否定的なストロークに近い概念ですが、否定的ストロークさえ与えられない状況を含むという意味では、否定的ストロークよりも非人間的な性格をもつともいえます。
例をあげてゆけば、無視され続ける子どもなどもそうです。ネグレクトなんて言葉もありますが、あれもディスカウントのひとつです。よく聞く話では一人親や再婚家庭などで、別れた夫との間に生まれた子と今の夫あるいはパートナーとの間に子どもが生まれたとします。すると、別れた夫との間に生まれた子は、知らず知らずのうちにディスカウントされる。ディスカウント、つまり邪魔者あるいは存在なき者として扱われる。親は子どもの存在を無視するなどの、さまざまなディスカウントを行うことで、その子の居場所を失くしていきます。これは故意か無意識で行われるのかは判断に迷いますが、結果としてディスカウントされた子どもは家から出ていくことに繋がります。
無論、ステップファミリー(再婚家庭)などに限らず、子どもの能力の優劣で兄弟間において、同じようなディスカウントがなされる場合もあります。
子どもにとって、自分という存在をこの世に送り出した親から否定されるというのは、強烈な痛みであり苦痛です。愛してほしいと願ってやまない存在から、自分の存在を否定され、まったく相手にしてもらえない。これほど辛く悲しいことはありません。そういう状況に追い込まれた子どもは親の注意を引こうと、わざと悪いことをして、叱られようとします。完全に無視されるよりは、否定的ストロークのほうがまだよい、と本能が叫ぶのでしょう。子どもが非行に走ったり、犯罪に手を染める行為の裏側には、こうしたディスカウントを打ち消すための否定的ストロークが隠されている場合があるのです。
こういう値引きは虐待とも呼ばれ、問題化されたりもしますが、わたしたちが普段からやっている値引きもあります。
その一つは他人への順位付けです。例を挙げて説明しますと、
彼女はわたしより美人だ。彼女はわたしより収入が高くて、いいところに住んでいる。
→己へのディスカウント
彼女はわたしより、貧乏だけど、彼氏はわたしよりお金持ちで、将来彼と結婚するらしい。そうなったら、彼女はわたしよりも上? ううん、だけど彼女は男にだらしがなくて、今の彼氏と結婚するとは限らないわ。彼、もてそうだもの。結婚なんてする前に、どうせ別れるに決まってる。
→他者へのディスカウント
こんな風に、わたしたちは普段、他人と比較して値踏みしあっています。そして、相手を見下したり、この子は自分より上かもと持ち上げて、自分の位置を確かめているのです。
そのことで、時にみじめになったり、時に優越に浸ったり。心を上げ下げさせて、疲弊していく。バカみたいだけど、みんなこういうことを自然にやっている。だけど、それを心の中だけでやるうちはまだいいんです。態度に表さなければ。死にたいと思うほど自分がみじめにならないのであれば、いい。問題なのは、態度に出してあからさまに他人を見下すことと、その反対に自分の位置を極端に下げすぎて自信を失くしてしまうことです。
なぜこのようなディスカウントが起きるのか?
それは、1回目のルポで記述した3つのわたしのバランスが偏りすぎているからです。日によってもエゴグラムの結果は変わります、と書きましたが、人は親・大人・子どものわたしがその時の環境や出来事によって、がくんと大きくいずれかに傾きすぎてしまうことが往々にしてあります。
批判的な『親』のわたしが強すぎると、「偏見」や「決め付け」を行い、「お前はダメだ。つまらないやつだ」と批判ばかりしてしまう。またある場合には保護的な親の部分が強すぎると、溺愛し過ぎたり、過保護・過干渉になり過ぎて、相手を損なってしまいます。
そして、子どもであるわたしが調子に乗りすぎて、「何とかなるさ!」と我がまま自由に行動した挙句、現実を見ずに勝手なことをやっている時でもあり、あるいは何にでもOKではない否定的な大人のわたしが、「やっぱり僕はダメなんだ」とか「何をいってるんだ。あいつよりは俺の方がいいに決まってる。だからこいつを見下して、自分を立ち直らせてやる」などと葛藤している時でもあります。
これらの時には、「今、ここ」での自分自身の状態、相手の状態、それを取り巻く現実が冷静に見えていないのです。本来なら、大人のわたしがきちんと判断すべきところなのに、大人のわたしが役割を十分に果たせていない。ゆえに、バランスを崩して混乱をきたした状態になり、他者ばかりか自分をも巻き込んでディスカウントしてしまうのです。しかし、一方では、一つの側面を現実よりも大きいものとして見ていたりもし(誇大視)、一方では現実よりもやたら小さいものに見えて、ディスカウントしているという、物の見方が両極端に偏っている状態でもあります。
一言でいえば、ディスカウントしている時は、自分の心に余裕がない状態の時なのです。
ですから、あまりにも自分が誰かに対して批判ばかりしているな、と思った時は、自分に聞いてみてあげてください。「あいつを批判したい気持ちはわかる。でも、その人を批判をすることで自分にいったいどんな見返りがあるというの?」
自分をあまりにも過小評価している場合には「今の自分は確かにダメな奴かもしれない。だけどそうやって落ち込んでばかりいても、仕方がないよね? 今がダメなら、どんな自分になればダメじゃないの? 自分はいったいどんな人間になりたいの? 理想の自分があるのなら、その理想を目指して、まずは理想に近づけるように行動してみない?」
――自分自身への問いかけは、きっと、誰かを批判するよりも、あるいは自分自身を責めるよりも、あなたの役に立つはずです。
(ハロ)
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