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2014年10月の6件の記事

3回会ったら、友達だよ

先日、いじめの話を書きました。

ちょっと暗くなる話でしたよね。そんな中、今通っている体操教室で、「3回会ったら、友達だよ」と言われて、ちょっとほっこりしました。

わたしは、ジムだとか、市民会館などで運動不足解消に時折身体を動かしに行くのですが、誰かを誘って行ったりはせず、一人で行って一人で動いて勝手に帰ってくるので、たいてい、そういう場所には友達がいないんですね。たまに市民館では、知り合いに会って挨拶ぐらいはしますが、その程度。

だから、この間体操に行って、親しく話しかけれた時はちょっとドキドキしました。

それで、話しかけてきたAさんの隣にいたSさんが「ちょっと、迷惑だよ」とたしなめた時、Aさんが先の言葉を言ったんです。

なんだか、うれしくて口元がほころんでしまいまして。

いいなぁ、って思いました。いろんな人がいるよねって。だけど、親しく話しかけられて、本気で迷惑、って思う人がそんなにいるんだろうか? と思いましたね。

少なくとも、わたしはうれしかった。

だから、「Aさんのことはいつも教室で見かけて顔は覚えていましたよ。いつも楽しそうに話していますよね」と答えると、「あぁ。デブだから、目立つんだよね」と返してきたので、「いやいや、そんなことは」と否定したのですが、どうもAさんは自分の容姿にコンプレックスを抱えている様子でした。

自分の欠点を人に言われて傷つく前に言ってしまえ、ということなのでしょうね。この間、横断歩道の手前で旗振りをやっていた時、通学途中の小学生の男の子たちが、ある男の子に絡んで「お前、また太ったな。いつも何食ってんだよ」などと突っ込まれて、俯いたまま黙り込んで歩いているところを見かけました。

「デブ」だとか「太ったね」っていうセリフを平気で口にする。子どもなら仕方がない面もあるけれど、大人でもこういうセリフを平気で口にする人たちっていますよね。彼ら(あるいは彼女たち)はいったいどういうつもりでこういうことを口にするにするんだろう。何がいいたいんだ? といつも不思議に思うのですが、理解できません。

 本人はきっとデブだと自覚しているから、何をいわれても傷つかないとでも思っているんでしょうかね? お笑い芸人なんかが、デブ、というのをネタに笑いをとっているから、一般のそこらへんに転がっている人たちも同じだとでも?

失礼な話です。

ただ、言う方は、おそらく自分が最近太ってきたことを気にしていたり、容姿や能力なんかにコンプレックスを持っているから、デブだのブスだのバカだのと一段低い人を罵ることで安心しようとしている、という心理が働いているのだろうと思います。こういう人は嫉妬心が強いか自己満足度が低く、いつも周りと比較してばかりいて、自分を保つのに苦労しているんでしょうね。

でも、こうした嫉妬心をいつまでも強く持ち続けていると、認知症にもかかりやすいという事がわかったそうですよ。心身共に健康でいるためにも、まずは身体を動かしたり、自分が没頭できる趣味などを見つけて心を落ち着かせ、今の状況を受けいれる気持ちを持つことは肝要だそうです。ましてや、他人に対してまで、激しい気持ちをぶつけるというのは、いき過ぎです。

言われっぱなしの人の気持ちも、もっと考えてあげてほしい。

誰だって、どうしようもないことで、バカにされ続けたら、面白くないし、疲れてしまう。その人のいいところをつぶすようなことはいわずに、黙っていてほしいものです。

昔、わたしの母が言ってくれた、ちょっといい言葉に「たとえどんなに大きな欠点があろうとも、他の誰かが自分に代わって生きてくれるなんてことは有り得ないし、どんなに太っていようとも、不細工だろうとも、バカだろうと、自分という人間は世界でたった一人しかいない人間なんだから、大事にして生きていかないとね」というのがありまして。

ちょっと、落ち込んでいるわたしを慰めようと言ってくれたんですが、その時、そうだなぁと思って、自分を大事にしようと思いました。

太っていようが、不細工だろうが、たとえ自分がどうしようもないおバカさんだったとしても、それは自分です。せめて自分ぐらい大事にしてあげなきゃ、可哀想ですよね。

少なくとも、わたしは時々、死ななきゃこの性質は直らないのか……? と泣きたくなるほどのドジを踏むことがあるのですが、それでも「まぁ、いいか」と適当に受け流し、自分を愛し、慰めるために、こっそり食い気に走っています(汗)

(はろ)

新しい登校スタイル

先日、ご近所のいじめ問題を書きましたが、一昨日の朝刊に「ネット登校 分身で通う」という見出しのついた記事が掲載されており、高校のみですが、インターネット上で学ぶシステム「サイバー学習国」を千葉県の通信制高校が来春から取り入れるそうです。アバターを使ってネット上の高校に通い、卒業資格まで得られるというから、通学できない子どもにとってはありがたい仕組みですよね。千葉県と書きましたが、もちろん全国どこからでも入学はOKです。

これは、いじめや病気などの様々な理由から学校に通えない子どもにとっては朗報かも、と思わず記事に見入ってしまった。

だからといって、不登校を勧めているわけではないけれど、いじめが発覚した後、教師やスクールカウンセラーたちの取る行動が「無理に登校しなくていい」と口添えするだけだとしたら、学校に通えなくなった子どもたち……強いては親御さんたちだって不安ですものね。

直接登校は年間に4日間のスクーリングだけ。同校の教員による約20分間の動画の授業とテストを毎回受けることで、通常の50分授業に相当するそうで、これを3年間こなせば、高卒の資格を得られるのだとか。

小学校や中学校には、こうした取り組みはまだ見られないけれど、そのうち小中学校にも広がっていくかもしれないそうで、前向きに検討中だそうです。学校を卒業して、学歴が手に入るのは安心材料の一つにはなるし、不登校が原因で学校を卒業できないと悩む子どもたちにとってはありがたい取り組みですよね。

けれども、いいかもしれないと思う反面、その後はどうするのかなと、ふと、気になった。

いじめられた。不登校になる。卒業するまで先生たちは様子を見るだけで放置。それでも、仮に卒業はできたとする。……で、その後は? 卒業した子どもたちはどうやって生活するの? 何をして生きていくんだ?

文部科学省が今月16日に発表した問題行動調査(2013年度)によると、不登校の小中学生は計11万9617人。内訳は小学生が2万4175人、中学生は9万5442人。

07年以降、合計数は減少してきたそうだけれど、13年度の調査では6年ぶりに増加。そこで架空の学園を誕生させることで、こうした子どもたちをフォローできるというのだ。アバターを使うことで、他の生徒とのコミュニケーションも図れ、実に画期的な手法だと評価する声もあがっている。けれども、一方で、高校の3年間を全てネットで完結してしまうと、社会に出ていくのが煩わしくなり、不適応を起こす可能性も否定できないのではないか、という意見もある。卒業した後、彼らを何らかの形でフォローするような仕組みもまた必要、とあったが、やはり卒業後の部分はまだ未開拓のままだそうで。

普通に学校に通ってきた子どもでさえ、苦労する就職の壁。

少子化少子化と、人間を増やすところだけが、クローズアップされるけれど、本当に大事なのは、人を増やすことよりも、今を生きている人間を大事にすることのような。今を生きているわたしたちが、あぁ、生きていてよかった、と思えることがあるからこそ、子どもを生むのであって、たとえ生んでも生きてやっていけるような社会じゃなかったら、子どもが減っていくのは当たり前、という気がする。

人が増えなきゃ、移民を受け入れて人口を増やせばいい。

こんな理屈もテレビや新聞等でよく耳にしますが、そんな理屈を平気で口にするのは、人をもはや人としてみていないからではないでしょうかね。人を、お金を生み出したり、労働力としての価値としてしかみていないから、そういう理屈になって、どんどん磨り減っていき、やがて人口の減少へと繋がっていくのではないでしょうかねえ。

理屈っぽくなってしまいましたが、最後に不登校の子を持つ親の会というのがありまして、これもまた地域ごとに活動しています。そこでは、学校を卒業した子どもたちが、資格を取るために勉強したり、農作業を通じて地方へ移住したりと新しい道を歩み始める子どもたちの姿を紹介したり、もちろん今現在不登校に悩んでいる人たちの集まりでもあるので、同じ立場の親同士、情報交換をしたり、卒業した親御さんを含めての相談会などもあるそうで、不登校の子どもばかりが問題視されるけれど、親だって悩んでいるんだぞ! という親御さんまたはお子さんにもお勧めです。

不登校でヒットした方はそちらも検索されてみてはいかがでしょうか。

(はろ)

ただし、

どこかのおばちゃんも、「そうだ! 家で仕事しよう」などとネットで検索して、怪しい仕事に引っかかりそうになったりもしているので、「このサイトはおかしいな?」と思ったら、すぐに引いてください。「この壷を家に置けば息子さんは変わる!」 とか「あなたのメールには悪い気が宿っている……」などというお誘いには引っかからないでくださいね(^_^.)

ご近所のいじめ問題

近所に住む小学生の男の子のお話です。

そもそも、この話を聞くこととなったのは、先月にあった町内パトロールの待ち合わせ場所に向かう途中、つまりわたしが一人で歩いている最中に、公園の地面に寝かされて首を絞められているA君を見かけたことがきっかけでした。もちろん、声をかけて二人を引き離してから立ち去ったのですが、その後に残された二人の様子がおかしかったので、どうしようかと思い、その後、ご近所の人たちにこの話を持ちかけてみました。ところが、ご近所さんたちはA君のママとは最近会わないし、A君は見かけても、話しかけてこないからねえ。わからないなぁ、といわれてしまい、しばらく保留になっていました。そして、先週たまたまA君のママと道端でバッタリお会いしたので、公園での出来事を話して、その際にいじめられている、という話を聞いた次第。

いじめをしたとされているのは、B君だそう。

わたしにはどうしようもない。A君のママいわく、一応、謝ってもらったし、担任の先生やスクールカウンセラーの先生とも相談して、本人が行きたくないと言っているのなら、無理に通わせなくていい、といわれたそうで、今月からしばらく学校をお休みしているのだとか。

A君はリュックを背負って塾に通う姿はちょこちょこ見かけていたので、学校に行っていないという話には驚かされた。とてもそんな風に見えなかったのだ。それに、家に友達も遊びに来ていたみたいだったので、「あれ?」って感じだったんだけど、どうも遊びに来ていた友達は、放課後他に行くところがなくて、おやつを食べたりゲームをしたりするのにちょうどいい、的な感じで利用されているだけなんだとか。

「うちの子はいつもそうなのよ。友達っていったって、仲がいいわけじゃないのよ」

このセリフには、わたしは「あぁ」とうなずけるものがあって、納得した。

今って、働いている親が多いから、子どもが家に帰ってきても、親がいない家庭は一定数いる。放課後、15時とか16時頃に家に帰ってきた子どもたちは、だいたい親が帰宅する18時~19時頃まで、一人か二人きりで留守番している。もちろん、子どもだけで。都合よく近所に実家を持つ共働き家庭ばかりではないから、当然といえば当然のことだけれど。

――そんな状況だから、おやつを食べさせてくれたり、いさせてもらえる友達の家って、きっと便利だし、ありがたいんだろうね。わかるけど、これには大きな問題がある。

というのも、ママが強く「友達を連れてきちゃ、ダメ!」って言える親でないと、こういう子の家は溜まり場として常に利用されてしまうのだ。

うちも何回か利用されたことがあって、多少ならまぁいいか、で済まされるんだけど。

持ちつ持たれつならぬ、ひたすら、持ちつ持ちつ持ちつと世話ばかり任され続けると、次第に疲れてきて、重くなってくる。その家の親も、自分の家の子どもがよそで世話になっていても、自分は他人の家の子の面倒を見る余裕はない人間だからと開き直って、世話を頼んでばかりになっていく。

気の毒といえば、気の毒な子だし、親もある意味可哀想な人たちだけれど、そこまで「いい人」にはなれないので、やがて、子どもには外で遊びなさい、それが無理なら、家につれてきちゃダメ、と厳しく言い聞かせるようになる。

けれども、そうやって、きっぱり言える親でないと、Aさんのように、利用される状況が続いてしまう。そして、精神的・肉体的・またおやつ代などの負担も増えていく。まぁ、利用されてもいいやとか、お役に立てれば……などという素晴らしい人格者であるのなら、それでもいいのだろうけれど、今回の場合に限っては、散々世話になった挙句に、その家の子に嫉妬して、いじめに発展しちゃうんだものね。もちろん、その子のキャラクターにもよるんだろうけど、気が弱いママの子も気が弱くて……なんて、ありがちだから、やられちゃったんだろうな。

交流分析で紹介した人付き合いの改善練習でもしてあげたい気がしたけれど、ご近所の人にいきなり交流分析の話なんてできない。

Aさんは、「ただ、もう今は逃げるしかなくて。このまま地元の中学に入るとまたいじめっ子たちと顔を合わせるだろうから、私立の中学に行かせるつもりなんだ」という。――とはいえ、ずっと休んでいるといろいろと言われちゃうので、学校を行ったり行かなかったりを繰り返しているそうだ。

他に方法はないのか? って気もするけれど、パパもいい学校に入って見返してやれ、って感じらしい。それはそれで勉強に張り合いはできるけど……。

だけど、他に解決策はないのだろうか? いじめの話を聞く機会はあるけれども、どこもやっぱり、謝っておしまいのパターンばかりで、その後子どもたちの様子が改善したとか、変わったという話はきかないから、大概は放っておくだけなのかなぁ。結局、いじめが発覚しても、子どもたちの力関係が変わるわけじゃないから、先生も親も何もできず、ただ黙って見ているしかないのだろうか。

人間だから、いじめも起きるし、いじめられっ子もいて当たり前だけど、見ているだけって、どうなんだろう。仕方がないのか……? と思いつつも、考えてしまった。

ソーホーのバイト

ソーホーって知っていますか? 在宅でのお仕事のことです。一時期、在宅ワーカーって流行っていましたよね。最近は不況に伴ってあまり聞かなくなりましたが。

――と。申し送れました、主婦をやっているハロです。

講座や勉強会の話とは全く関係ないので、そちらの情報を知ろうと思っていらっしゃる方はこの欄は無視してください。

そろそろ、子どもも手がかからなくなってきたので、何か仕事を始めようかと求人を見ていると、掲載されているパートやアルバイトの内容って、午前8時半から午後17時まで、といったフルタイム並みの仕事が多いんです。はっきりいって、パートじゃない! 社員だろ! と突っ込みたいところですが、最近のアルバイトは半日の仕事ってなかなかないんですね。

手がかからなくなってきた、とはいえ、子どもはまだ小学生。今時の母は子供一人につき一度は役員をやる、とか。横断歩道の旗振り当番や近所のパトロール当番も回ってくる。また子どもが地元のサッカーチームに入っていたりもするので、校庭当番や試合当番も回ってきて、結構やることがあるもんだから、フルタイムで働くのは、ちょっと厳しい(^_^;)

そこで。在宅の仕事はどうかと探していたら、商品のコピーを書く仕事があったんです。昔そういう仕事をした経験も(少しだけ)あったので、申し込んでみたところ、妙にあっさり採用されまして、稼ぎはほぼないけれど、あら? いいの? みたいな感じだったんです。

ところが。一回目の仕事の依頼を片付け、次の仕事として「WEB管理の仕事をやってみませんか?」と電話がかかってきたんですね。そちらの方がより儲かりますよ、と。そこで、内容を聞くと、WEBサイトに自分でホームページを立ち上げてそこで売れた商品のアフリエイトで稼がないか、という話だったんです。しかも、そのホームページを立ち上げるのに、まずは三十万を会社に支払うのだとか。また、その維持管理費として毎月三千円程度かかるそうで。

はっきりいって、アレだ。

そんなにアフリエイトで稼ぎたきゃ、自分でブログを書いて、店舗を貼り付ければいいんじゃないのって話。制作費に三十万円だなんて、全く必要なし。うまい話にゃ裏がある、という言葉を思い出して、ため息をついた次第です。

真面目にコツコツ働くつもりはあるけれど、希望する仕事がなさ過ぎると、うっかり変な話に乗っかって、稼ぐどころか、むしろマイナスになりそう。気をつけなくては……。

パートも下手すると、ブラック企業の餌食。アルバイトにも色々ありますね。

(ハロ)

交流分析ルポ(二回目) 後編

交流分析の講座についてのお話はこれで最後です。

間を空けてしまってすみませんm(__)m

交流分析の「ディスカウント」についてです。

わたしたちが日ごろ使うディスカウントという言葉はスーパーやデパートの特売のことですが、交流分析で使用するディスカウントはもっと深刻な内容です。人間の存在を低くみたり、無視したりするあらゆる言動を含みます。従って、値引きは否定的なストロークに近い概念ですが、否定的ストロークさえ与えられない状況を含むという意味では、否定的ストロークよりも非人間的な性格をもつともいえます。

例をあげてゆけば、無視され続ける子どもなどもそうです。ネグレクトなんて言葉もありますが、あれもディスカウントのひとつです。よく聞く話では一人親や再婚家庭などで、別れた夫との間に生まれた子と今の夫あるいはパートナーとの間に子どもが生まれたとします。すると、別れた夫との間に生まれた子は、知らず知らずのうちにディスカウントされる。ディスカウント、つまり邪魔者あるいは存在なき者として扱われる。親は子どもの存在を無視するなどの、さまざまなディスカウントを行うことで、その子の居場所を失くしていきます。これは故意か無意識で行われるのかは判断に迷いますが、結果としてディスカウントされた子どもは家から出ていくことに繋がります。

無論、ステップファミリー(再婚家庭)などに限らず、子どもの能力の優劣で兄弟間において、同じようなディスカウントがなされる場合もあります。

子どもにとって、自分という存在をこの世に送り出した親から否定されるというのは、強烈な痛みであり苦痛です。愛してほしいと願ってやまない存在から、自分の存在を否定され、まったく相手にしてもらえない。これほど辛く悲しいことはありません。そういう状況に追い込まれた子どもは親の注意を引こうと、わざと悪いことをして、叱られようとします。完全に無視されるよりは、否定的ストロークのほうがまだよい、と本能が叫ぶのでしょう。子どもが非行に走ったり、犯罪に手を染める行為の裏側には、こうしたディスカウントを打ち消すための否定的ストロークが隠されている場合があるのです。

こういう値引きは虐待とも呼ばれ、問題化されたりもしますが、わたしたちが普段からやっている値引きもあります。

その一つは他人への順位付けです。例を挙げて説明しますと、 

彼女はわたしより美人だ。彼女はわたしより収入が高くて、いいところに住んでいる。

→己へのディスカウント

彼女はわたしより、貧乏だけど、彼氏はわたしよりお金持ちで、将来彼と結婚するらしい。そうなったら、彼女はわたしよりも上? ううん、だけど彼女は男にだらしがなくて、今の彼氏と結婚するとは限らないわ。彼、もてそうだもの。結婚なんてする前に、どうせ別れるに決まってる。

→他者へのディスカウント

こんな風に、わたしたちは普段、他人と比較して値踏みしあっています。そして、相手を見下したり、この子は自分より上かもと持ち上げて、自分の位置を確かめているのです。

そのことで、時にみじめになったり、時に優越に浸ったり。心を上げ下げさせて、疲弊していく。バカみたいだけど、みんなこういうことを自然にやっている。だけど、それを心の中だけでやるうちはまだいいんです。態度に表さなければ。死にたいと思うほど自分がみじめにならないのであれば、いい。問題なのは、態度に出してあからさまに他人を見下すことと、その反対に自分の位置を極端に下げすぎて自信を失くしてしまうことです。

なぜこのようなディスカウントが起きるのか? 

それは、1回目のルポで記述した3つのわたしのバランスが偏りすぎているからです。日によってもエゴグラムの結果は変わります、と書きましたが、人は親・大人・子どものわたしがその時の環境や出来事によって、がくんと大きくいずれかに傾きすぎてしまうことが往々にしてあります。

批判的な『親』のわたしが強すぎると、「偏見」や「決め付け」を行い、「お前はダメだ。つまらないやつだ」と批判ばかりしてしまう。またある場合には保護的な親の部分が強すぎると、溺愛し過ぎたり、過保護・過干渉になり過ぎて、相手を損なってしまいます。

そして、子どもであるわたしが調子に乗りすぎて、「何とかなるさ!」と我がまま自由に行動した挙句、現実を見ずに勝手なことをやっている時でもあり、あるいは何にでもOKではない否定的な大人のわたしが、「やっぱり僕はダメなんだ」とか「何をいってるんだ。あいつよりは俺の方がいいに決まってる。だからこいつを見下して、自分を立ち直らせてやる」などと葛藤している時でもあります。

これらの時には、「今、ここ」での自分自身の状態、相手の状態、それを取り巻く現実が冷静に見えていないのです。本来なら、大人のわたしがきちんと判断すべきところなのに、大人のわたしが役割を十分に果たせていない。ゆえに、バランスを崩して混乱をきたした状態になり、他者ばかりか自分をも巻き込んでディスカウントしてしまうのです。しかし、一方では、一つの側面を現実よりも大きいものとして見ていたりもし(誇大視)、一方では現実よりもやたら小さいものに見えて、ディスカウントしているという、物の見方が両極端に偏っている状態でもあります。

一言でいえば、ディスカウントしている時は、自分の心に余裕がない状態の時なのです。

ですから、あまりにも自分が誰かに対して批判ばかりしているな、と思った時は、自分に聞いてみてあげてください。「あいつを批判したい気持ちはわかる。でも、その人を批判をすることで自分にいったいどんな見返りがあるというの?」

 自分をあまりにも過小評価している場合には「今の自分は確かにダメな奴かもしれない。だけどそうやって落ち込んでばかりいても、仕方がないよね? 今がダメなら、どんな自分になればダメじゃないの? 自分はいったいどんな人間になりたいの? 理想の自分があるのなら、その理想を目指して、まずは理想に近づけるように行動してみない?」

――自分自身への問いかけは、きっと、誰かを批判するよりも、あるいは自分自身を責めるよりも、あなたの役に立つはずです。

(ハロ)

交流分析ルポ(二回目) 前編

本日は27日に行われた交流分析の二回目の講座の内容をお伝えしたいと思います。

ただし、長いので前編・後編に分けてお伝えしたいと思います。

この日のテーマは「ストロークとディスカウント」でした。

英語の辞書をひいてストロークとは「打つこと、なでる、さする」とありますが、交流分析では、ストロークの意味をもう少し拡大解釈し、なでてもらったり、話しかけられることも含め、「その人の存在や価値を認めるための言動や働きかけ」と定義しています。

ストロークには肯定的なものと否定的なものがあり、抱擁したり、微笑んだり、褒めたり励ましたりするものが、肯定的ストローク。叩く、無視する、叱る、悪口をいうなどが否定的ストロークです。

日常でよくありますよね。人の悪口を言ったり言われたり、優しくされればうれしい。けれども、無視されると悲しい。こういう人との関わり方から発生するものはみんなストロークなんです。

人は発達段階において、基本的な欲求が備わります。乳児や幼児の時は接触や承認といった肌や心の触れ合いが求められますが、大人になると「時間の構造化」という生きがいの欲求が生じてきます。――といっても、生きがいなんて、とんでもない。生活するのに精一杯で、そんなこと考えている余裕はないわ、という方も多分にいらっしゃると思いますが、(そんなことないかな(^_^.)?)。

本当にそうですか?

心の奥底で、仕事や家庭に、何より人生そのものにおいて、「あぁ、いつまでわたしはこんな風に生きていかなければならないの?」とか「わたしの人生は、こんなはずじゃなかったのに」と後悔や悲しみの念を抱くことはあるでしょう?

これが生きがい欲求です。

なぜ自分の人生を全面肯定できないのか。それは人生に生きがいを求めているからです。今のあなたが生きがいを感じていないから、不満でいっぱいなのです。

交流分析の創始者バーン博士は、人間は退屈ということに耐えられず、次の6つの方法で構造化される(生きがい欲求の形式化)といっています。

1 引きこもり

2 儀礼

3 暇つぶし

4活動

5心理的ゲーム

6親密な交わり

時間の構造化は、「ストロークを受け取ったり、与えたり、あるいは避けたりする過程」であり、1→6へいくに従って、ストロークの密度は濃くなります。

わたしがこの中でもっとも面白いと感じたのは、「ゲーム」です。

ゲームといっても、テレビやスマートフォンで行うゲームではありませんよ。パターン化された人との関わり方のひとつで、歪んだ性格の持ち主が行うやり口のことです。

ゲームを演じる人は性格形成過程において歪みを生じているんですね。例をあげますと、男なんてみんなケダモノよ! という女性がいたとします。彼女はこれを証明するためにあらゆる男性を誘惑します。そして男性が誘いに応じると、「やっぱり男なんてみんな身体が目当てなのね」と肘鉄をくらわします。彼女は「男はケダモノ」を証明するために男性を誘うのです。そして乗ってきたら断るということを繰り返します。なぜなら、これは彼女のゲームだから。

これは極端な例ですが、わたしたちは案外、人との関わり方にある法則を持っていて、同じようなパターンを繰り返していたりするものです。もちろん、問題がなければそのままでいいのですが、問題を抱えたゲームを楽しむ人はこの歪んだ構造を修正しないと、人間関係に亀裂をもたらし、やがて破綻を迎えます。まずは自分の行動パターンを分析して、問題がないかどうかを確認してみるといいですね。

とはいえ。確認とはどうすればいいのかといえば、自分の頭に浮かぶ最近受けたあるいは記憶に残るストロークをグラフにして、分析するのです。すると自分の行動と思考のパターンに気づきます。ちなみにわたしは自己分析で「とばっちり」を受けやすタイプでした。

簡単に説明しますと、わたしは何となく気の毒に見える人がいると、同情して、何かしてあげようとするんですね。でも、感謝されればうれしいけれど、何かしてあげても感謝どころかくってかかってきたり、それどころか、怒り出す人もいて、とんだ目にあった、ということがありました。でも、こういうことって、一度だけじゃない。ということは、何か問題があるわけで、感謝されなかった時点でもう手を引くか、あるいは変に同情しないとか。気をつけるべき点が見つかるわけです。

自分のこういう傾向を知っておくと、また気の毒な人が来た時に気をつけようという心構えができます。同じ負の連鎖を繰り返さないようにと自分で喚起できるのです。

簡単にですが、以上がストロークについてです。

次回は「ディスカウント」についてお話します。長文を読んでくださり、ありがとうございました。

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