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2007年11月11日 - 2007年11月17日の6件の記事

4つの心理的過程の整理①

イントロジェクション(取り込み)の傾向のある人は、他者が自分に望むようにする。
プロジエクション(投射)の傾向にある人は、本当は、自分の方が他者を責めたいのであるが、他者から自分は責められているととる。
病的なコンフルーエンス(融合)の傾向にある人は、誰が誰に対して何をしているかを知らない。
リトロフレクション(反転)の傾向にある人は、他者に対してしてあげたいことを自分自身にする。
人が行動を反転するときは、その人が本来、他者または対象物に対してしてあげたいと欲したものを自分自身にする。
このような人は自分の欲求を満たすために外界に働きかけたりしない。
エネルギーを外に向けて外界を操作したり変えることに使わないで、むしろ内に向けている。
したがって、本来、日標となるものが外界にあったとしても、そこには目を向けないで、自己に絶えず向けている。
このようなパーソナリティの持ち主は「する」立場と「される」立場の両方に二分割されている。
その意味では自分が、文字通り、自分の最悪の敵となるのである。



リトロフレクション(反転)

リトロフレクション(反転) とは、「鋭く元へ跳ね返ってくる」ことを意味している。
リトロフレクションの傾向を持つ人は、自分と外界との境界を的確に知っていて、ちょうどそこへ明確で、鮮やかな線を引く。
しかし、この線は、自分のなかの境界だと思われるところに引かれるのである。

リトロフレクションの状態にある人は、「私は自分自身が恥しい」とか、「この仕事をするためには私自身をムチ打たねばならない」などと言う。
この種の表現が際限なくみられる場合、それは間違いなくリトロフレクションの状態にあるといえるが、それは「私」と「私自身」とは別々の人物であるかのような考え方に根ざしているからである。
例の合唱団のメンバーが「私は私自身をコントロールしなければならない」と言っているのは、まさにこの範疇に入る典型である。



こどもの感受性

先日、子どもたちとおもちゃ屋さんや本屋、ゲームセンターで遊びました。
そんな中、上の子は、元気一杯、やんちゃ一杯で、店行ったらフラフラ走り回り、それを見ていた下の子もまねをして、大変でした。他の人にはぶつかるし、うるさいし…。まあ、楽しそうだから良いんですけど、一応マナーについては考えてもらいました。「自分がぶつかられたらどう」とか、「フラフラしている子供を見たらどう思う」とか。効果はありました。

が、しばらくするとすぐに忘れて、元どおり^_^;

これってカウンセリングにも通ずるな、と思いました。直後の効果はあるが、しばらくするとその効果は薄れるものです。理性の面への働きかけの限界を感じました。やはり子どもの心への働き掛けが重要ということを感じました。

さて、帰り際になると、子どもが手に持っているはずのカバンやおもちゃが全然ありません。しかも電車に乗った後で(ーー;) さすがに頭にきてしまい。「なにやってんの」と激怒。子どもは泣きじゃくり… 気まずい帰宅でした(>_<)

が、これも家に着いたら吹っ飛び、家の中で戦いごっこと昼寝(遅寝?)

これが結構、幸せだったりします。

で、次の日、そうは言っても、怒った自分も気持ち的にスッキリしないので、子どもを部屋に呼び、昨日、怒ったことを謝りました。

すると、それまで笑っていた子どもの目から大粒の涙が…

きっと辛い思いを抑えていたのだろうと感じました。僕以上に子どもの心には「負担」として残っていたのだと思います。謝ってよかったと思いました。そして、子どもと大人の感じ方・感受性は全然違うものだとあらためて感じました。

子どもの心に、「辛さ」が溜まらないように。
そして、「やすらぎ」「安心」「楽しみ」など、良い気持ちに満たされるように、親は働きかけないといけないと思いました。

子育ては「自育」とも言われますが、まさにそのとおりと言えます。

この日は、子どもと一緒に風呂に入って、寝ました(*^_^*)


(おなけん)

コンフルーエンス(融合)④

例に挙げた合唱団のメンバーの言った「我々は歌い続けたい」というせりふは、彼以外の団員たちには当てはまることであって彼には当てはまらない。
彼自身について言えば、一時その場を離れ、トイレに行くととができればよかったのである。
それゆえコンフルーエンスを示す以外の何ものでもない。
彼自身の欲求と他者の欲求とを弁別できない状態にあることを物語っている。
病的なコンフルーエンスの状態にある人が「我々」というとき、その人自身なのか、他者のことなのか、どちらのことを言っているのか分からない。
なぜなら、その人は完全に境界を失っているからである。


コンフルーエンス(融合)③

病的なコンフルーエンスは社会的にも非常に問題のある結果をきたすことがある。
コンフルーエンスの状態では何でも同一でないと気がすまなく、少しの相違にも耐えられなくなる。
このことは自分の子どもを単に自分たちの延長物としか思わない両親にもみられる。
多くの両親が、自分の子どもは少なくとも何かの点で自分たち両親とは違っていて欲しいと思うのに対して、このような両親は、そうは願わない。
そして、両親と融合せず、また期待に応えられないとき、子どもは拒絶され、疎んじられることになる。
「お前は私の息子ではない」とか、「親のいうことをきかない子どもは面倒みませんよ」と。


コンフルーエンス(融合)②

病理的なコンフルーエンス状態にある人は、自分が何者であるかを言うことはできないし、また他者が何者であるかを告げることもできない。
そのような人はどこまでが自分で、どこからが他者なのかが分からない。
そして自己と他者の間の境界が分からないので、他者とよいコンタクトを持つことが不可能である。


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