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2007年11月4日 - 2007年11月10日の6件の記事

コンフルーエンス(融合)①

人が、自分自身と外界との境界を感じられないとき、あるいは自分と外界とが一つであると感じるとき、コンフルーエンス(融合) の状態にある。
そのとき部分と全体とを、互いに区別することができない。
新生児はコンフルーエンスの状態にある。
すなわち、身体内部と外部の区別ができないし、自己と他者との区別もついていない。


プロジェクション(投射)⑤

イントロジェクションの傾向の強い人は、その人自身の内側が未吸収の考えが争い合う戦場となるが、一方、プロジェクションの傾向の強い人は、世界が個人的な葛藤を戦わす戦場となる。
必要以上に用心深い、あるいは心配性の人は、友人が欲しい、また、誰かから愛されたいと言うが、同時に「誰も信じられない。他人は鵜の目鷹の日。みなたかろうとしている」とも言う。
これはまさに最高のプロジェクションの例である。


プロジェクション(投射)④

イントロジェクションは自己卑下や自己疎外の感情を生むが、それらの感情が今度はプロジェクションされることになる。
なぜならば、例に挙げた合唱団のメンバーは、礼儀作法は個人的な欲求を満足させることよりも大切であるという考えをイントロジェクションしているからである。
あるいは、人は「無理に笑ってがまんする」ことを学ぶべきであるという考えをイントロジェクションしてしまっているために、このイントロジェクションした考えと合わない彼の内なる衝動は、プロジェクションするか、もしくは払いのけてしまわねばならなくなる。

プロジェクション(投射)することによって、彼がイントロジェクションしたものとみなしているもの、事実においてはそうではなく自分自身の側面なのであるが、それを取り除きたいと願っている。


プロジェクション(投射)③

先の合唱団のメンバーの例では、自分の膀胱について「全く厄介なことだ」と泣き言をいったが、それはまさしく格好のプロジェクションの例である。
まさに発言権を得たかのごとく、頭をもたげてきた自分の膀胱の犠牲になろうとしている。
そして「膀胱が、たまたま運悪くもよおしてきて、私を苦しめる」と言う。
これがパラノイアの始まりなのである。
「誰がそう言うのか」に対する答えはイントロジェクションの傾向の強い人では「彼ら」である。
一方、プロジエクションの傾向の強い人の答えは、「それは膀胱であり、トイレに行きたがっているのは他ならぬ膀胱なのだ」である。
プロジェクションの傾向の強い人が「それ」あるいは「彼ら」と言うときは、多くの場合「私」を意味している。


プロジェクション(投射)②

神経症の患者は外界だけでなく、自分自身に対してもプロジェクションの機制を働かせている。
彼は自らの内に生起する衝動を持ち得ていないばかりか、衝動が生起する身体の部所をも持ち合わせていない。
身体をあたかも自分とは関係のない客観的な物体にしてしまっているので、自分自身の一部という認識なしに、問題の責任を物体になすりつけている。
人生は自分自身にとってかけがえのないものであるという積極的な生き方をするかわりに、プロジェクションの傾向のあるものは、受身で消極的な物体になりさがり、まわりの状況の犠牲者のように振舞うようになる。


プロジェクション(投射)①

イントロジェクション(取り入れ) の逆はプロジェクション(投射) である。
イントロジェクションが、実際には外界に帰すべき事柄を自己の責任としてしまう傾向のことを指すのに対して、プロジェクションは、もとはと言えば自己に端を発しているものを外界のせいにしてしまう傾向のことを指す。

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