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2007年7月15日 - 2007年7月21日の4件の記事

悲しき現状

6月15日付けの「日本農業新聞」の一面に次のような記事が掲載されていました。その中でも印象的だったのは以下の記述です。

市場原理で「切り捨て」
 
農村の過疎化と東京への一極集中は進む。国立社会保障・人口問題研究所の35年までの推計では、人口が増えるのは東京と沖縄しかない。
 
大都市では、ふるさとが無く農村を実感できない世代が増え続ける。名古屋市の大手企業勤めの青年(28)は、インターネットのブログ(日記)で「ふるさとがなくなってもしょうがない」と山間地の限界集落を冷たく見限る。
 
「本人の望みで不便な場所に住んでいるのに、そこにぼくら都会人の税金が使われるのは理解できない」
 
経済効率の物差しから外れるものを、「無価値」「お荷物」と切り捨てる。その風潮は、国政に影響力を持つ経済人や学者の間にも目立つ。

このような考え方をする人が多くなっているのでは、と感じてはいたが、記事を読んでショックでした。山間地の集落に人が住まなくなったら誰が手入れするのでしょうか? 国産の農作物は不要なのでしょうか? 田舎・ふるさとが日本になくなったら、どこに安らぎを感じることができるのでしょうか? 田舎・ふるさとがあるから、がんばれるところはないでしょうか? なんでも競争で、勝てば良いということなのでしょうか? 田舎・ふるさとを守ってくれている人に感謝の意で、わずかな税金を投入することは間違いなのでしょうか?

これからは食の安全・安心がさらに前面に出てくるでしょう。そのとき国産の農産物が水産物がありがたいものであるかを実感できることになるでしょう。これからは農業・水産業の価値が見直されるのではないかと思っています。それによって、適正価格が実現されれば、農水産業は花形産業になるでしょう。

日本での仕事を各自が分担しているということを意識すべきです。自分だけががんばっている・苦労しているわけではないです。それぞれの仕事を各地域で、各自がそれぞれ努力して、みんなに喜んでもらうために働いているんです。あそこは経済効率が悪いから切り捨てれば良い、自分だけ良ければ良いというのは、人間的に病んでいると思います。こういう人には共同体感覚をもって欲しいです。

自分も他人も認められる、そういう心をもって、私自身も、日々生活していきたいと思います。

(おなけん)

信念と哲学の違い

信念と哲学の違いについて、簡素に書かれていたものがありましたので、以下に紹介します。

「哲学」がわかる!』より

信念とは、個人的なものです。個人的な信仰のようなものです。信念は個人的経験から発してくるものであり、他人が理解できる論理から出てきたものではありません。
哲学もまた経験を上台にはしていますが、論理的につじつまの合う説明となっています。ですから、ある哲学に対して論理的な批判を加えたり、矛盾を突いたり、することができるのです。そうして、いわば修正が可能な考えなのです。
一方、信念は、批判したり矛盾を突いたりしても、修正されることはないのです。そして、信念は他人に押しつけることすらできますが、哲学は他人に押しつけることができません。ただ、
論理的に納得してもらうことはできます。

(おなけん)

報道について

先日の新潟の中越沖地震のニュースを見て、地震の恐さを再認識させられました。自宅では、水等の食料の備蓄や家具のストッパーなどをして対策はしていますが、実際に地震がきたらどうなるのか…

それと、阪神淡路をはじめとした大地震のときに、自分のできることのなさを痛感します。また、その場に直面したときに、精神的に安定していられるかということも感じます。疲労し、過去のこと、先のことをいろいろ考えたりして…

テレビの報道にも毎度腹立たしいものがあります。全局が被災地に行き、倒壊した建物等の取材映像を流しています。こういうときには、1局の映像だけで十分だし、余計なアナウンサーの説明などいらないという気がします。心のない声で、現地の様子を語られると、なんとも言えない怒りがわいてきます。それよりも現地で必要としているものや人・技能等、それを提供するための手段等を放送してもらった方がよほど役に立つと思います。テレビに期待すること自体が駄目なのかもしれませんが、野次馬的な報道はやめて、今何が情報として必要かということを見極め放送して欲しいと思いました。

(おなけん)

心照古教

数日前に書いた「本に読まれてはいけない」という内容のことを、どこがで読んだな、と思っていたのですが、その本を見つけたので、その一文を紹介します。

安岡正篤『活学としての東洋思想』より

本の読み方には二通りあって、一つは同じ読むといっても、そうかそうかと本から終始受ける読み方です。これは読むのではなくて、読まれるのです。書物が主体で、自分が受け身になっている。こっちが書物から受けるのである、受け取るのである。つまり吸収するのです。自分が客で、書物が主。英語で言えば passive です。もっと上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。しかしこれだけではまだ受け身で、積極的意味に於て自分というものの力がない。そういう疑問に逢着して、自分で考え、自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。今度は自分の方が本を読むのです。虎関禅師は、「古教照心、心照古教」と言っておるが、誠に教えられ考えさせられる、深い力のある言葉です。自分が主体となって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。

(おなけん)

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