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2007年11月の27件の記事

成人前期(親密か孤独か)

20歳の後半から30歳の前後にかけては、次の人生の2大選択である就職、結婚の問題が若者に押し寄せてくる。
この選択の問題を決定しようとすると、その前の自我同一性の問題を解決しておかねばならないことにあらためて気づかされるのである。
同一性を確立しないうちに人生の2大選択を決定しようとしても、自分の価値観が不安定で、何を基準にして判断してよいか決まらないからである。
そして結婚と就職が決定すると、次に生じてくるのは、身近な他者の出現である。
身近な伴侶や同僚の出現は、これらの人たちとどのような心理的距離をとり親密性を発揮したらよいか戸惑わせることになる。
親愛の情の表現方法がわからず、身近な他者との距離感がうまくつかめずに、危険視して伴侶や同僚を遠ざけてしまい、孤独な生活を送る人も出てくる。


『産業カウンセリング入門(改訂版) 』より)


青年期(自我同一性の確立か、同一性拡散か)

第2次性徴を迎える時期に前後して、心理的に大きな混乱を迎え、自分とは何者か、自分に与えられた社会的役割は何かなどで苦しむ時期を体験する。
この時期を通して、いままでもらってきた学校や社会からの価値観や社会的権威
は、自分の価値観から問い直され自分なりの新しい価値基準で整理統合され、自我同一性の確立がなされる時期である。
そして自分なりの人生観をつくり、過去・現在・未来を見通して人生目標をもち生きることのできるパーソナリティを獲得できるかが決まる時期でもある。
この時期に同一性の確立ができずに、いくつかの選択肢のなかで迷い続けてモラトリアムになるものや、このような悩みをすべて投げ出して考えようとせずに同一性拡散のなかに過ごし、それからの人生が、無為で閉じこもりの人生になっていくものもいる。

『産業カウンセリング入門(改訂版) 』より)


学童期(勤勉性か劣等感か)

小学校の1年から6年(6歳から12歳)までは、子どもが親元から離れ、学校や社会のなかに参加し、そのなかで生きるのに必要な知識や技術を身につけていく時期である。
この学童期の子どもは1日の時間の大半は学校で過ごし、同級生のなかで競合したり共同したりして過ごすことになる。
この時期に自分から他児に働き掛けを行い積極的にかかわっていける子どもはさらに勤勉性が身につくが、この時期に他児から遅れをとったり、存在が拒否されたりすると劣等感をもつようになる。
この時代のパーソナリティもまた大人時代に与える影響が大きいことになる。


『産業カウンセリング入門(改訂版) 』より)

幼児後期(自主性か罪悪感か)

この幼児後期(3歳から5歳頃)の時期は、男女の違いに気づくようになり、その役割について考え始める。
子どもは活発に遊ぶようになり、他児と協力して、「協同あそび」ができるようになる。
2歳時は自分の空想世界で1人遊びをしていたが、3~4歳になると鬼ごっこやかくれんぼのような役割を分担して遊ぶことができるようになり、遊びの面白さを何倍にも広げるようになる。
このようにして遊びの世界が広がると友だちとの協力をしながら自主的に活動するようになるが、なかにはこのような目的行動が養育者と衝突し、常に罪悪感のなかで行動することが定着する子どもも出てくる。


『産業カウンセリング入門(改訂版) 』より)

幼児前期(自律性か恥・疑惑か)

幼児期は1歳から5歳頃までであるが、このうち幼児前期(1歳から3歳までの時期)は食事習慣や排泄行動などの基本的生活習慣をつくる時期であり、言葉を獲得し始める時期である。
この時期に幼児はあれこれ自分で試してみて、その試行錯誤のなかから「自分は自分の力で○○ができる」という自信を身につけることになる。
この時期について自信は、自分の価値を高め自律性を育でることになる。
しかし幼児のやっていることが黙って見ていられずに養育者が正しい(?)やり方や合理的(?)なやり方を教えようとすると、幼児は自分の能力に疑問をもち、やがて自分の行動に自信をなくし、自分の行動を「恥」と思ったり、強迫症状が定着するようになる。


『産業カウンセリング入門(改訂版) 』より)

乳児期(基本的信頼か不信感か)

生まれて1歳までの乳児は、養育者の顔や声に敏感に感応し、笑ったり泣いたりを繰り返すことにより、感情表出を行い、養育者の関心を自分に引き寄せる。
イギリスの児童精神科医のボールビイは、この養育者との特別な情緒的結びつきを「愛着」と呼び、この時期にこの感覚を獲得すると生涯にわたって続くものと考えている。
つまり、「人生のなかで何か困ったことがあれば、あの人がきっと助けに来てくれる」という基本的信頼感がこの時期に形成されれば、この考え方がパーソナリティのなかに定着するのである。
しかしながら、この時期に養育者が乳児の世話を拒否的になったり、不十分な対応をとったりすると、やがて対人関係に不信感をもつようになり、破壊性、自閉傾向や悲観主義で定着するのである。


『産業カウンセリング入門(改訂版) 』より)

エリクソンの精神発達理論

エリクソンは、正統派精神分析学者であり、フロイトの理論を基礎とし、ユングの考えを組み込み、彼自身の統合的ライフサイクル論を展開している。
彼は、ライフサイクルを8段階に分け、それぞれの段階におけるライフタスク(life task)示をした。
ライフタスクとは、人間の生活、生涯、生命にとって重要な課題を意味している。
従来、発達課題という用語が用いられてきているが、ライフタスクとは、多くの発達課題のうち、人間の成長にとって、 もっとも中心的課題をいう。

なお、発達課題とは、個人が発達していくうえで、ある発達段階に達成しておかなければならない発達的技能(心身の諸機能、技術、知識、態度など)のことである。

エリクソンの心理社会的危機を中心にした発達心理学的観点をもとにして、各時期の発達課題とパーソナリテイの形成を整理すると、次のようになる。

①乳児期(基本的信頼か不信感か)
②幼児前期(自律性か恥・疑惑か)
幼児後期(自主性か罪悪感か)
学童期(勤勉性か劣等感か)
青年期(自我同一性の確立か、同一性拡散か)
成人前期(親密か孤独か)
成人期(世代性・生殖性か停滞か)
老年期(統合か絶望か)


睡眠について

睡眠に対する知識が書いてあるものがありましたので、紹介します。

1.睡眠は脳を休養させる。

2.睡眠時間が十分でも、夜更かしはよくない。

3.夜に強い光をあびるのはよくない。

4.睡眠不足は老化を促進させる。

5.寝ないと太る。

6.睡眠不足は、メタボリックシンドロームの要因になる。


実技免除の知らせ

産業カウンセラー協会の養成講座受講生の手元には、実技試験免除の結果が届いたころではないでしょうか。

この制度の評価システムは不明確ですので、合格された方はそれでOKですし、駄目だった人もそれで自信を失う必要もありません。

実技試験免除の仕組みは、学生時代の内申書に近いものがあり、講座中、静かに聞いている、良い子が比較的合格しやすいようです。ですから、私たちも、パッと見で、大体の合否がわかります。反抗的な人や目立つ人は結構落ちています。

大体、養成講座に通って、実技免除にならないということは、指導者にも問題があるといえます。ロジャーズ流に言えば、その人本来の成長力を導き出せなかった指導者(ファシリテーター)に課題ありです。

今回の実技免除の感想を是非お聞かせいただければと思います。

(おなけん)

覚えられない

試験勉強にあたって、「覚えられないので、全然だめで、どうしたら良いでしょう?」という質問をよくいただきます。

自分で、「覚えられない」と思ってしまって、より良く覚えることができるでしょうか。マイナスのメッセージをもって、がんばってもその効果は半減します。やはり「少しずつなら覚えられる」とかのプラスメッセージをもって、勉強した方が良いでしょう。

また、「覚えられない」と言っても、すべてが覚えられないということではありません。ただ、すべてを覚えていない。だから覚えられない、という結論に至っていてる人が多そうです。できないところ・欠点を探すと、当然できていないと感じるでしょう。しかし、できているところ・長所に着目すれば、できているんです。

良いところに気づき、それを伸ばしていくのがカウンセラーの仕事のひとつです。自分自身の良い面に気づき、伸ばしていくことも大切だと思います。

(おなけん)

『産業カウンセリング入門(改訂版) 』

『産業カウンセリング入門(改訂版) 』は、ひと通り勉強された方が、「たまには違う本を読みたいな」というときにお奨めです。
基本的に協会のテキストに準じていますので、知識の定着・再確認には最適です。プラスアルファもあります。

基本は、協会のテキストと過去問集です。それと当サークルのテキスト(*^_^*)

いろいろ手を付けすぎると混乱しますので、まずは基本から。

(おなけん)

4つの心理的過程

自己と他者との混乱が神経症なのである。
この混乱がみられたときには、基本的には、イントロジェクションやプロジェクション、リトロフレクション、コンフルーエンスのメカニズムが働いているのである。
その最たるものはパーソナリティの崩壊であり、思いと行為との混同である。

心理療法においては、神経症の人の弁別の能力を再構成しなければならない。
自分と自分でないものとを再発見することができるように援助しなければならない。




4つの心理的過程の整理②

イントロジェクションの場合は、実質上は「彼ら」であるにもかかわらず「私」という代名詞が使われるところに特徴がある。
プロジエクションの場合は、実質上は「私」であるにもかかわらず「それ(it)とか「彼ら」という代名詞が使われる。
コンフルーエンスの場合は、実質上はどちらか分からないにもかかわらず「我々」という代名詞が使われるところ特徴がある。
リトロフレクションの場合は、「私自身(myself)という再帰代名詞が使われるのが特徴である。



4つの心理的過程の整理①

イントロジェクション(取り込み)の傾向のある人は、他者が自分に望むようにする。
プロジエクション(投射)の傾向にある人は、本当は、自分の方が他者を責めたいのであるが、他者から自分は責められているととる。
病的なコンフルーエンス(融合)の傾向にある人は、誰が誰に対して何をしているかを知らない。
リトロフレクション(反転)の傾向にある人は、他者に対してしてあげたいことを自分自身にする。
人が行動を反転するときは、その人が本来、他者または対象物に対してしてあげたいと欲したものを自分自身にする。
このような人は自分の欲求を満たすために外界に働きかけたりしない。
エネルギーを外に向けて外界を操作したり変えることに使わないで、むしろ内に向けている。
したがって、本来、日標となるものが外界にあったとしても、そこには目を向けないで、自己に絶えず向けている。
このようなパーソナリティの持ち主は「する」立場と「される」立場の両方に二分割されている。
その意味では自分が、文字通り、自分の最悪の敵となるのである。



リトロフレクション(反転)

リトロフレクション(反転) とは、「鋭く元へ跳ね返ってくる」ことを意味している。
リトロフレクションの傾向を持つ人は、自分と外界との境界を的確に知っていて、ちょうどそこへ明確で、鮮やかな線を引く。
しかし、この線は、自分のなかの境界だと思われるところに引かれるのである。

リトロフレクションの状態にある人は、「私は自分自身が恥しい」とか、「この仕事をするためには私自身をムチ打たねばならない」などと言う。
この種の表現が際限なくみられる場合、それは間違いなくリトロフレクションの状態にあるといえるが、それは「私」と「私自身」とは別々の人物であるかのような考え方に根ざしているからである。
例の合唱団のメンバーが「私は私自身をコントロールしなければならない」と言っているのは、まさにこの範疇に入る典型である。



こどもの感受性

先日、子どもたちとおもちゃ屋さんや本屋、ゲームセンターで遊びました。
そんな中、上の子は、元気一杯、やんちゃ一杯で、店行ったらフラフラ走り回り、それを見ていた下の子もまねをして、大変でした。他の人にはぶつかるし、うるさいし…。まあ、楽しそうだから良いんですけど、一応マナーについては考えてもらいました。「自分がぶつかられたらどう」とか、「フラフラしている子供を見たらどう思う」とか。効果はありました。

が、しばらくするとすぐに忘れて、元どおり^_^;

これってカウンセリングにも通ずるな、と思いました。直後の効果はあるが、しばらくするとその効果は薄れるものです。理性の面への働きかけの限界を感じました。やはり子どもの心への働き掛けが重要ということを感じました。

さて、帰り際になると、子どもが手に持っているはずのカバンやおもちゃが全然ありません。しかも電車に乗った後で(ーー;) さすがに頭にきてしまい。「なにやってんの」と激怒。子どもは泣きじゃくり… 気まずい帰宅でした(>_<)

が、これも家に着いたら吹っ飛び、家の中で戦いごっこと昼寝(遅寝?)

これが結構、幸せだったりします。

で、次の日、そうは言っても、怒った自分も気持ち的にスッキリしないので、子どもを部屋に呼び、昨日、怒ったことを謝りました。

すると、それまで笑っていた子どもの目から大粒の涙が…

きっと辛い思いを抑えていたのだろうと感じました。僕以上に子どもの心には「負担」として残っていたのだと思います。謝ってよかったと思いました。そして、子どもと大人の感じ方・感受性は全然違うものだとあらためて感じました。

子どもの心に、「辛さ」が溜まらないように。
そして、「やすらぎ」「安心」「楽しみ」など、良い気持ちに満たされるように、親は働きかけないといけないと思いました。

子育ては「自育」とも言われますが、まさにそのとおりと言えます。

この日は、子どもと一緒に風呂に入って、寝ました(*^_^*)


(おなけん)

コンフルーエンス(融合)④

例に挙げた合唱団のメンバーの言った「我々は歌い続けたい」というせりふは、彼以外の団員たちには当てはまることであって彼には当てはまらない。
彼自身について言えば、一時その場を離れ、トイレに行くととができればよかったのである。
それゆえコンフルーエンスを示す以外の何ものでもない。
彼自身の欲求と他者の欲求とを弁別できない状態にあることを物語っている。
病的なコンフルーエンスの状態にある人が「我々」というとき、その人自身なのか、他者のことなのか、どちらのことを言っているのか分からない。
なぜなら、その人は完全に境界を失っているからである。


コンフルーエンス(融合)③

病的なコンフルーエンスは社会的にも非常に問題のある結果をきたすことがある。
コンフルーエンスの状態では何でも同一でないと気がすまなく、少しの相違にも耐えられなくなる。
このことは自分の子どもを単に自分たちの延長物としか思わない両親にもみられる。
多くの両親が、自分の子どもは少なくとも何かの点で自分たち両親とは違っていて欲しいと思うのに対して、このような両親は、そうは願わない。
そして、両親と融合せず、また期待に応えられないとき、子どもは拒絶され、疎んじられることになる。
「お前は私の息子ではない」とか、「親のいうことをきかない子どもは面倒みませんよ」と。


コンフルーエンス(融合)②

病理的なコンフルーエンス状態にある人は、自分が何者であるかを言うことはできないし、また他者が何者であるかを告げることもできない。
そのような人はどこまでが自分で、どこからが他者なのかが分からない。
そして自己と他者の間の境界が分からないので、他者とよいコンタクトを持つことが不可能である。


コンフルーエンス(融合)①

人が、自分自身と外界との境界を感じられないとき、あるいは自分と外界とが一つであると感じるとき、コンフルーエンス(融合) の状態にある。
そのとき部分と全体とを、互いに区別することができない。
新生児はコンフルーエンスの状態にある。
すなわち、身体内部と外部の区別ができないし、自己と他者との区別もついていない。


プロジェクション(投射)⑤

イントロジェクションの傾向の強い人は、その人自身の内側が未吸収の考えが争い合う戦場となるが、一方、プロジェクションの傾向の強い人は、世界が個人的な葛藤を戦わす戦場となる。
必要以上に用心深い、あるいは心配性の人は、友人が欲しい、また、誰かから愛されたいと言うが、同時に「誰も信じられない。他人は鵜の目鷹の日。みなたかろうとしている」とも言う。
これはまさに最高のプロジェクションの例である。


プロジェクション(投射)④

イントロジェクションは自己卑下や自己疎外の感情を生むが、それらの感情が今度はプロジェクションされることになる。
なぜならば、例に挙げた合唱団のメンバーは、礼儀作法は個人的な欲求を満足させることよりも大切であるという考えをイントロジェクションしているからである。
あるいは、人は「無理に笑ってがまんする」ことを学ぶべきであるという考えをイントロジェクションしてしまっているために、このイントロジェクションした考えと合わない彼の内なる衝動は、プロジェクションするか、もしくは払いのけてしまわねばならなくなる。

プロジェクション(投射)することによって、彼がイントロジェクションしたものとみなしているもの、事実においてはそうではなく自分自身の側面なのであるが、それを取り除きたいと願っている。


プロジェクション(投射)③

先の合唱団のメンバーの例では、自分の膀胱について「全く厄介なことだ」と泣き言をいったが、それはまさしく格好のプロジェクションの例である。
まさに発言権を得たかのごとく、頭をもたげてきた自分の膀胱の犠牲になろうとしている。
そして「膀胱が、たまたま運悪くもよおしてきて、私を苦しめる」と言う。
これがパラノイアの始まりなのである。
「誰がそう言うのか」に対する答えはイントロジェクションの傾向の強い人では「彼ら」である。
一方、プロジエクションの傾向の強い人の答えは、「それは膀胱であり、トイレに行きたがっているのは他ならぬ膀胱なのだ」である。
プロジェクションの傾向の強い人が「それ」あるいは「彼ら」と言うときは、多くの場合「私」を意味している。


プロジェクション(投射)②

神経症の患者は外界だけでなく、自分自身に対してもプロジェクションの機制を働かせている。
彼は自らの内に生起する衝動を持ち得ていないばかりか、衝動が生起する身体の部所をも持ち合わせていない。
身体をあたかも自分とは関係のない客観的な物体にしてしまっているので、自分自身の一部という認識なしに、問題の責任を物体になすりつけている。
人生は自分自身にとってかけがえのないものであるという積極的な生き方をするかわりに、プロジェクションの傾向のあるものは、受身で消極的な物体になりさがり、まわりの状況の犠牲者のように振舞うようになる。


プロジェクション(投射)①

イントロジェクション(取り入れ) の逆はプロジェクション(投射) である。
イントロジェクションが、実際には外界に帰すべき事柄を自己の責任としてしまう傾向のことを指すのに対して、プロジェクションは、もとはと言えば自己に端を発しているものを外界のせいにしてしまう傾向のことを指す。

恩師からの教え

ここ数日、人との共同活動の難しさを痛感し、気持ちがふさいでいました。
今日、ふと、今年亡くなった恩師からのノートを見ていると「真のリーダーの心得十カ条」と書かれたものがありました。誰かの言葉のようですが、その中に…

レベルの高い方が苦労するのは宿命である。
(真のリーダーにとって、困難と苦労が生じなければそれは異常)

生意気ではありますが、この言葉に共鳴しました。そして、「そうか!!」と救われる思いでもありました。
他の心得もとても心に響くものがあり、あらためて「やる気」がみなぎってきました。久しぶりに言葉の力強さを実感しました。

さあ、今から!!

(おなけん)

イントロジェクション(取り入れ)④

イントロジェクションとは、真に自己のものではない規範、態度、行動や考え方をあたかも自分のもののように思い込むという神経症的な心理的過程をいう。
このイントロジエクションにおいては、自己と周りの外界との境界が、自己の内界に入ってしまって、ほとんど自己が存在する余地がなくなっている。
合唱中にトイレに行きたくなりながらいけないという例のところで、例えば、「他者に迷惑をかけてはいけない」と考えるのは、このイントロジェクションの典型だといえる。
それにしても、いったい誰がそう言うのであろうか。
彼自身であろうか。
それとも合唱団員たちであろうか。
彼は自分の欲求は取るに足らなく、いつも集団の欲求の方を優先させねばならないと考えているのであろうか。
普通、イントロジェクションしやすい人が「私は、~と考える」と言うとき、実は「彼らは~と考える」という意味の場合が多い。


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